世界が注目!最も"インクルーシブ"な町「大分」パラリンピックが地域を変える(第3回)

1964年に日本で初めてのパラリンピックが開催されてから半世紀以上が経ち、まもなく2回目のパラリンピックがやってきます。前回大会のレガシー(遺産)として、日本では障がい者の自立に向けた動きや、障がい者スポーツの普及が進みました。そして現在、大分では障がい者による地域との共生を目指す動きが、地域全体の活性化に結び付くという大きな局面を迎えています。

温泉施設を楽しむピーター・ドゥ・プレア選手(右)と家族

「車いすに乗ったまま浴槽の淵まで来られるなんて……」

第38回大分国際車いすマラソン開催直前の2018年11月15日、全国有数の温泉地である別府市の露天風呂では、入浴を楽しむある外国人が感嘆の声をあげた。
「車いすに乗ったまま浴槽の淵まで来られるなんて、初めての体験だ。これなら気軽に温泉が楽しめる」
声の主は、この3日後の大会当日に、T51クラスで見事、3連覇を果たすことになる南アフリカのピーター・ドゥ・プレア選手である。大分に来たのはこれで5度目だというプレア選手だが、これまでは競技に集中するためにレース会場周辺以外にはあまり出向いたことがなく、世界でも有数の温泉地である別府の温泉を体験したのは、この時がほぼ初めてだった。

「これまで、様々な国に行きましたが、大分の町は最も"インクルーシブ"な町といえるのではないでしょうか? 車いすユーザーに配慮し町の至る所がフラットに作られているだけでなく、視覚に障がいのある方へ町中に点字ブロックが敷かれているなど、その他の障がいのある方などへも配慮されています。車いすユーザーとしての視点で見ても、本当にこの町には感激しました」(プレア選手)

車いすに乗ったまま浴槽の淵まで来たプレア選手は感嘆の声をあげた

障がい者や高齢者が安心して観光を楽しめる地方都市の「先進的な事例」として大分は注目される

訪日客誘致に向けて地方都市の「先進的な事例」に

プレア選手を招待したのは、外国人旅行者の誘致活動を行う政府機関であるJNTO(日本政府観光局)。車いすマラソンの著名選手の1人であるプレア選手に、同伴の家族とともに、車いすリフト付きのバス、温泉施設や海浜公園などの主要観光地のバリアフリー事情を体験してもらい、日本の地方都市の「アクセシビリティ(利用しやすさ)」をアピールするのが狙いだ。2020年に向けて、多くの観光都市が外国人客の増加を見込み、誘致活動を繰り広げる中で、JNTOは障がい者や高齢者が安心して観光を楽しめる地方都市の「先進的な事例」として大分に注目したのである。

「誰でも優しい日本というのを、オリンピック・パラリンピックを機会に世界に発信したいという中で、その1つとして、高齢、障がいの有無にかかわらず快適に旅行できる環境が整っているということをアピールしたいと考えました。大分は国際車いすマラソン大会を38回も開催していて、町全体が障がい者を特に意識することなく、自然に受け入れています。障がい者と健常者が普通に生活しているそのマインドも含めて、こういうところが日本にあるということを、この機会に世界に紹介したいと思いました」(JNTO市場横断プロモーション部 竹島克恵さん)

「アクセシブル」で「多様性」に富んだ温泉街

大分県別府市は温泉湧出量、源泉数ともに日本一を誇る温泉街として知られるが、中村裕博士の設立した太陽の家や、大分国際車いすマラソンなどの国際障がい者スポーツ大会の長年における開催がもたらしたレガシーとして、今では障がい者や高齢者にやさしい「アクセシブル」な温泉街として国内外から注目される場所となりつつある。

「大分は、観光の町・温泉の町というイメージがあると思いますが、別府市は「共生のまち」ということで日本全国・世界に向けてアピールしていこうとしています。別府の人口は、約12万人ですが、うち障がいのある方は約8,800人、海外の方も約4,300人います。このような多様性に富んだ町は全国でも珍しいのではないでしょうか。別府のような「共生のまち」がもっと全国に広がっていくように発信していきたいと思っています」

こう語るのは太陽の家の現在(5代目)の理事長である山下達夫氏。別府出身の中村が1965年に設立してから半世紀以上が経過した太陽の家は、現在県外も含めて5つの事業所に、約1,800名の従業員(うち障がい者は1,100名)を抱え、6企業、8社から共同出資を受けるまでに拡大している。設立当初こそ障がい者の働く場の確保に重点が置かれていたものの、規模の拡大とともに健常者の雇用も増やし、現在では、雇用者の約4割を占めるまでになった。そこには、障がい者と健常者が「共生する」社会を作るという中村の強い思いが込められている。

障がい者自立から健常者と共存する社会へ

現在の太陽の家には、従業員の拡大を受けてスーパーマーケット、銀行、クリニック、公衆浴場、スポーツセンターなどの店舗がひしめき合い、障がい者の仕事場というだけではなく、周辺住民と障がい者が一緒になって利用する交流の拠点になっている。同時に太陽の家に所属する障がい者たちが施設の外に出て、繁華街で観光客などに交じって飲食や買い物をすることも珍しくはなくなった。世帯を含むと2,000人以上となる太陽の家の従業員たちは人口十数万人の別府市の経済にとって大事な顧客として認識されており、多くの店舗が彼らを迎え入れるために自主的に店をバリアフリー化していったからだ。別府市にあるスナック「モナ・リザ」もそんなお店の一つである。

「お店が1階にあって車いすでも入れるので、太陽の家からお客さんが多く来るようになりました。以前は、トイレが狭くて車いすが入れなかったのですが、自主的にバリアフリー対応に改修しました。太陽の家は昔からあって、障がい者という意識はありません。うちではほかのお客さんも含めて、みな和気あいあいと飲みます」(店主の清水美子さん)

バリアフリーに対応するための手すりなどの設備は、太陽の家も作っており、最寄りの駅をはじめとして、周辺地域にスロープやバリアフリー対応のトイレや温泉施設などが設置されていくことで「太陽の家」という施設を通じた「共生の思想」は、施設という壁を超えて、町全体に波及しつつある。

「約50年前に父(中村)が設立した施設には、現在は1,000名ほどの障がい者がいます。その方々が家族を持ち、親になれば、学校のPTAに参加しますし、運動会や食事会にも行きます。自然に交わることで、障がいがあること自体に段々と違和感がなくなってくるんですね。長年にわたって障がい者が一定数以上いると、知り合いに障がい者がいることも当たり前になってきます」(中村の長男:中村太郎医師)

このような好循環を行政もサポートすることで、別府市は高齢化が進む日本の中でも、他の都市に先駆けて障がい者や高齢者に優しいユニバーサルツーリズムのまちづくりが進んでいる。2018年12月に公表された大分県内の雇用障がい者数(2016年6月1日現在)では全国3位となる実雇用率2.46%で、過去最高を7年連続で更新した。

また大分県は、障がい者のスポーツ参加を支援する「障がい者スポーツ指導員」の数が, 障がい者手帳を持つ人の数の割合で、0.65%(2016年の調査より)と全国で最も高い(全国平均は0.31%)。これは、中村が開催に尽力した大分国際車いすマラソンのレガシーとして、障がい者スポーツ全般の運営支援を目的に、障がい者スポーツ指導者を育成する組織が設立されたことが大きく貢献したと言われている。その受け皿として事務所やスポーツ施設を提供しているのが、中村の設立したもう1つのレガシーである太陽の家だということも興味深い。

観光客減少のピンチを救った若者たち

留学生約3,000人が通う別府市の国際大学

港町として開けた大分では、温泉街の発展なども手伝ってもともと域外からの人や物の流 入に寛容だったと言われている。そうした歴史的な背景もあって、太陽の家の開設と大分国際車いすマラソンの開催以降、障がい者の住みやすい街づくりを積極的に進めてきた大分だったが、2000年に入って、大きな岐路を迎えることになる。少子高齢化やバブル崩壊による国内旅行者の減少で、域内宿泊者数がピーク時の6割程度にまで減少したのである。多くの地方の名だたる温泉街と同様、別府も苦境に立たされたが、それを救ったのは2005年に別府市が誘致して設立された国際大学の若者たちだった。大学の誕生により世界88か国からやってきた外国人留学生約3,000人と、同数の日本人学生合わせて6,000人の若者が一気に街に移住。高齢化が進行しつつあった別府市の19-22歳人口構成比は5.53%(全国平均3.76%)まで上昇しただけでなく、外国人留学生たちが地域振興に積極的に関わったことで多言語、多文化の要素を取り入れた店が増えるなど、町が国際化とともに活気を取り戻していったのだ。

一方で大学側としても3,000人もの外国人留学生が集まるキャンパスの運営は初めての試みだった。留学生たちと地域住民がお互いに融和し、学生たちが地域にポジティブな影響を与える関係性を築くことは、大きなチャレンジだったと言う。

「別府でよかったと思っています。太陽の家の成功が示すように、別府には外部から来た多様な人々を受け入れる寛容な文化的土壌があります。私たちは留学生を少子化の穴埋めとは考えておらず、世界で活躍できる人材を育てるため、90か国もの人々を集めて多様性をキャンパスにもたらすことが重要だと思っていました。大分にはもともと多様性があって、それをさらに伸ばしたいと考えていたので、私たちと考えが一致していたことが大きかったと思います。他の場所で同じようなことがすぐにできるわけではありません」(立命館アジア太平洋大学・牧田正裕 社会連携部長)

パラリンピック開催と多文化社会の実現

東京1964パラリンピックのレガシーといえば、翌65年に日本身体障がい者スポーツ協会が設立されたことからもわかる通り、障がい者がスポーツをすること、その意義が広く伝わったことが挙げられる。しかし、もう1つのレガシーとして、忘れてはいけないのが、パラリンピック開催をきっかけに、大分にもたらされた多文化社会の実現ではないか?

障がい者スポーツの推進というと、障がいがある人だけに関係あるものと考える人もいる。だが、大分で実現しつつある多文化社会の姿は、それが幅広く全ての人々に関係あることだということを証明していると言っていいだろう。

東京1964パラリンピックが開催された時、身体障がい者のうち65歳以上の高齢者が占める割合は3割程度だった。しかし、高齢化が進む現代の日本社会において、その割合は7割以上まで増加している(厚生労働省が発表した2018年4月時点では74%)。高齢になるほど身体障がい者の割合は高まる傾向にあり、人口の高齢化により今後もさらなる増加が見込まれている。こうした社会では、「多様性が認められる社会」という障がい者スポーツが目指す姿は、以前よりも重要性が増している。

一番大事なことはアクセシビリティではない

東京2020大会のスポークスパーソンを務める高谷正哲は、大会の3つのコンセプトの1つである「多様性と調和」について次のように話す。

「東京1964パラリンピックから半世紀以上を経た2回目の夏季パラリンピックでは、成熟社会となった日本がさらに一歩進んでいくための原動力となることが求められています。物理的なバリアフリーだけではなく、心のバリアフリーも含め、障がいの有無を問わず、あらゆる面での違いを肯定し、多様性を受け入れる人が大会を通じて1人でも多く増えること、(言い換えれば)ポジティブで分け隔てない"インクルーシブ"な社会の実現こそが大会の成功のひとつといえると思います」

地元の車いすアスリートと談笑するプレア選手(左)

冒頭で登場した南アフリカのプレア選手は、視察後、大分を評価するポイントとして、ハード面のアクセシビリティはあくまで1つの側面に過ぎず、本当に感激したことは別のことだ、として次のような言葉を残している。

「私にはここにいる人々に何よりも感激しました。ここの人たちは私にもごくごく普通に接してくれます。それはとてもインクルーシブなことだと思います。アクセシビリティが確保されていることはとても大事ですが、それ以上に"人"が一番大事です。自分がほかの"特別な"誰かでなく、ほかのみんなと同じようにコミュニケーションを取れることが大事なのです」

(この項、了)