大空を「希望」で彩るブルーインパルス 長野1998大会の記憶、2020年へ紡ぐ思い

東京1964オリンピックの開会式で上空にスモークで5つの輪を描いた、航空自衛隊の展示飛行チーム「ブルーインパルス」。彼らのパフォーマンスは、同大会の象徴的な出来事として今も語り継がれています。5つの輪を飛行機で描くというのは前例がないアトラクションで、開会式が全世界で衛星生中継されていたこともあり、ブルーインパルスは日本のみならず、世界にも知られることになりました。正式名称は、宮城県松島基地の第4航空団に所属する「第11飛行隊」。航空自衛隊の存在を多く知ってもらうために航空祭や国民的な行事などで、アクロバット飛行を披露する専門のチームです。

私たち東京2020組織委員会は、長野1998大会で展示飛行の任務に就いていたメンバーの1人である阿蘇晋一1等空佐(航空自衛隊松島基地副司令)に、当時の様子や思い、東京2020大会への期待をお伺いしました。

東京1964大会の開会式で飛行したブルーインパルス

大会前年の夏に要請、限られた条件下での飛行

東京1964大会から33年と4カ月後、ブルーインパルスは長野1998オリンピックの開会式でも、クライマックスで再び展示飛行を行いました。もっともこのときは冬季大会。東京1964大会のようなアトラクションではなく、小澤征爾さんが指揮するベートーベン交響曲第九番(以下、第九)の合唱が終わると同時に、オリンピックのシンボルカラーとなるスモークを出しながら上空を通過するというものでした。

「ちょうど今のT-4という飛行機に代わって2年目くらいのときに、長野1998大会で飛行するという話が出てきました。あらためて振り返るとその時期に在籍して、メンバーでいられたことは幸運だなと感じます。」

長野1998大会の記憶を阿蘇1佐に語ってもらいました

ブルーインパルスの飛行訓練を見守る阿蘇1佐

阿蘇1佐は当時のことを鮮明に記憶していました。航空自衛隊に飛行要請があったのは大会前年の1997年夏ごろ。阿蘇1佐が31歳のときでした。実際にどういう飛行にするかは、航空自衛隊側とチーム側に任されており、そのときの隊長は試行錯誤していたそうです。長野は山に囲まれた盆地で、さらに季節は冬。天候の不安もあり、実際は限られた条件下での飛行となりました。

「(静岡県の)浜松基地から飛び立って北上し、(長野県の)諏訪湖上空を通って、上田市の上で旋回しながら、長野市の南西から入っていきました。スタジアムのメインの観客席から聖火台は南西側にあったので、そちらから入っていく方法を採ることになりました。」

難題に挑んだ隊員たち、それでも淡々と任務を遂行

開会式のクライマックスを彩ったブルーインパルス。阿蘇1佐は右から2番目の飛行機で、緑色のスモークを出しながら飛行しました

過酷な条件に加え、第九の合唱が終わったと同時にスタジアム上空を通過するというタイミングの難しさもありました。細かくスケジューリングされていたとしても、すべてが予定通り進むわけではありません。世界中が注目するビッグイベントだけに、失敗は許されないというプレッシャーもかかりました。

「開会式は選手の入場やイベントで時間の要素がずいぶんと変わります。だから飛行がいつのタイミングになるかはそのときになってみないと分からなかった。私は2番機である左翼機に乗っていたのですが、当時の隊長は時間が決まらなかったので大変だったという話をしていました。ただ、第九の合唱は事前に何回か練習してもほとんど誤差がないということだったので、あのときも第九が始まって「何分後で」と伝えられて、タイミングを合わせたのを覚えています。」

かくして、飛行は見事に成功。阿蘇1佐自身も大きな任務をやり遂げた安心感と達成感を得たと振り返ります。

「上空を通過し終わるまで隊員は編隊長機をずっと見ているのですが、パッと広がって再集合するときに、後ろを振り返るとスタジアムが見えるんです。(飛行している)自分たちは後になってからじゃないとどういうふうに見えたかは分かりません。ただ、その様子が全世界に生中継されているだろうと想像はできたので、世界中から注目が集まっているんだなと思うと感動しましたね。」

それでも阿蘇1佐を含め隊員たちは、皆それぞれ淡々と任務を遂行していたそうです。「このポイントに何時何分に着く。」というのは、他の展示飛行でもやること。オリンピックだからと言って特別なことをしたわけではないという認識です。もっとも浜松基地に戻ってきたときに、着陸を見守っている人々に向けて、スモークを出しながら基地上空を通過したのは、隊員たちの喜びを表すものだったのかもしれません。

阿蘇1佐

東京2020大会への思い「被災地の方に勇気を」

2011年、ブルーインパルスが所属する松島基地は東日本大震災の津波で、F-2B戦闘機など28機が被害を受けるという惨事に見舞われました。ブルーインパルスは震災翌日に予定されていた九州新幹線全線開業の祝賀飛行のため、前日から福岡県の芦屋基地に展開しており被害を逃れましたが、松島基地が受けたダメージは甚大でした。

東日本大震災の津波で大きな被害を受けた松島基地

4メートルほどかさ上げした格納庫

「建物の1階は水につかりましたし、装備品、飛行機、車両も津波に流されました。ちょうど雪が降っていて天候も良くなかった。飛行訓練を止めたところで地震があって、津波はそれから1時間後くらいに来たのですが、滑走路の点検もしなくてはいけないですし、飛行機を飛ばすことができない状態だったので、人を逃がすことで精いっぱいだったんです。」

その後、松島基地では同程度の津波が来たとしても耐えうるように盛り土をして、格納庫や駐機場を以前より4メートル程度かさ上げしました。これにより飛行機が被害を受ける懸念は減り、また盛り土をしたことで格納庫や駐機場が町の第三の防波堤にもなっていると言います。ブルーインパルスも震災から2年後、松島基地に帰還。奇跡的に被災を免れ、力強く空を舞う姿は、人々に希望を与える復興の象徴にもなっています。

復興の象徴にもなっているブルーインパルス

ブルーインパルスが東京の空に五輪マークを描いた日から56年後となる2020年、東京に再びオリンピック・パラリンピックが戻ってきます。被災地となった宮城県や福島県でも競技が行われるとあって、阿蘇1佐はこう期待を寄せていました。

「出場されるアスリートの中にも、おそらく被災地出身であったり、縁のある方が何人かいると思います。ゴルフの松山英樹選手は東北福祉大学に在学中に、卓球の張本智和選手も小学生のときに仙台市内で被災したと聞きました。そういった被災地から出場されるアスリートの皆さんが良い成績を残していただけたら、被災地の方も勇気づけられると思います。」

阿蘇1佐

復興オリンピック・パラリンピックとも位置付けられる東京2020大会で、日本選手はどのような活躍を見せてくれるのでしょうか。長野1998大会の空を彩った阿蘇さんは、「学生時代にやっていた卓球を見たい。」と笑みを浮かべながら、来たる祭典に思いを馳せているようでした。