「東京2020大会招致決定がJヴィレッジ再開の機運を高めてくれた。」株式会社Jヴィレッジ管理課長 山内正人さんインタビュー

1997年、福島県に日本初のサッカーナショナルトレーニングセンターとして開設されたJヴィレッジ。開設以来、サッカー日本代表のトレーニングキャンプをはじめ、多くのチームに利用されてきましたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴い、営業の休止を余儀なくされました。また、福島第一原発事故の対応拠点となりサッカーで使われていたはずのピッチには車両が乗り上げ、営業当時は想像もできないような絶望的な状況に陥っていました。

あれから7年。

2018年7月、多くの方の尽力により、Jヴィレッジは本来の目的であるサッカーのトレーニング施設としての営業を再開しました。私たち公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック組織委員会(東京2020組織委員会)は、見事に復活を遂げたJヴィレッジにゆかりのある方にお話をお伺いすることで、スポーツが人々に与える勇気と力を知り、東京2020大会の一部競技を被災地で開催することが復興に向けたアクションの1つにつながるのではないかと考え、2人の方にインタビューを行いました。

2番目にご紹介するのは、株式会社Jヴィレッジで管理課長を務める山内正人さん。山内さんは、Jヴィレッジ開業間もない1999年から勤務されており、東日本大震災で原発事故の対応拠点となってからも、Jヴィレッジの再開に向けて尽力されました。
2018年7月28日にJヴィレッジが再始動を迎えるにあたって、スポーツが被災地に与える力、東京2020大会への期待などをお伺いしました。

地元福島にJヴィレッジ誕生。当時の思いとは。

初めに、Jヴィレッジについて教えてください。

Jヴィレッジは福島県浜通りに位置し、東北地方にありながら温暖な気候で、冬季も雪の影響を受けずに年間を通して利用することができます。観覧席付スタジアムを含め天然芝ピッチ8面、人工芝ピッチ2面、全天候型練習場、雨天練習場を備えています。トップアスリートから一般の方まで、同じピッチで質の高いトレーニングを行うことができる施設です。2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した原発事故対応のため、7年余りにわたって営業を停止しておりましたが、2018年7月28日から営業を再開しました。天然芝ピッチ5面と人工芝ピッチ1面が利用可能となり、 2019年4月までに全施設オープンを予定しています。

施設を案内する山内さん

当時、地元福島にJヴィレッジができると聞いた時は、どんなお気持ちでしたか?

私が学生で地元を離れていた時にJヴィレッジができると聞いたのですが、元々ここは一帯が山だったので、「本当にこんなところにそんな施設ができるのかな?」と半信半疑でした。ところが、実際オープンした後に来てみたら本当にすごい施設で、今度は「本当にここは楢葉町なのか?」と不思議な感じがするほどでした。

サッカー日本代表の合宿により地域全体が盛り上がりを見せた2006年。

施設のオープン以来、サッカー日本代表合宿などにより多くの来場者が来て、この地域がとても盛り上がっていたと聞きました。当時の様子を教えてください。

一番盛り上がったのは、2006年ドイツW杯直前合宿の時でした。ジーコ監督率いるサッカー日本代表が宿泊された1週間で、延べ6万人以上の方が来場されました。当時の楢葉町の人口が8千人強でしたので、この小さな町にそれだけ多くの方が訪れたということになります。地元の方にも設営に協力していただいたので、地域全体がすごく盛り上がっていました。
当時は、選手がトレーニングしている様子を一目見ようと、県外からも多くの人が来場され、ピッチの周りが人で埋め尽くされて、そのさらに後ろにある植栽があるところまで人がいる状況が何日も続きました。盛り上がりと同時に混乱もあったりして、いろいろなことがありましたけど、その時は本当にサッカーが持つ魅力を改めて感じましたね。

2006年ドイツW杯直前合宿時の様子。1週間で延べ6万人以上が来場した。

他に、代表選手などとの思い出はありますか?

私は日本代表選手とはそこまで触れ合うことはなかったのですが、2002年日韓W杯の際にアルゼンチン代表が合宿されたときのことは覚えていますね。当時はとても暑くて、主力のバティストゥータ選手にアイスがほしいと頼まれたのですが、言葉が分からないものですから、お互いジェスチャーで会話して、最後に「アイスか!」と、お互いに通じ合ったときにとても盛り上がったのが良い思い出です。

2011年3月11日、東日本大震災発生。混乱。戸惑い。

震災が発生した時のJヴィレッジの状況を教えてください。

震災発生当日、私はたまたま午後から休みだったので自宅にいたのですが、Jヴィレッジの様子が気になって戻ろうとしても道路が寸断されてなかなか進めませんでした。何とかJヴィレッジにたどり着いた時には、お客様もJヴィレッジの体育館の方に避難していて、それだけではなく、この地域の方もJヴィレッジに避難されてきていました。
ただ、停電していたこともあって、情報がなかなか入ってこなくて、沿岸部に自宅があるスタッフも津波が来ていたことを知らないといったような、とにかく混乱した状況でした。

地震により寸断された道路

「神様が宿る」ピッチの芝に踏み込む車両。感じた絶望。

震災発生翌日の3月12日、Jヴィレッジは福島第一原発の避難指示区域(のちに警戒区域)に指定され、Jヴィレッジからの避難を余儀なくされました。その時はどのような状況だったのですか?

避難をしていたのですが、3月20日ごろに、Jヴィレッジの様子が気になって(原発事故対応)作業員の方にJヴィレッジまで連れて行っていただいたことがありました。
私たちJヴィレッジのスタッフは「Jヴィレッジのピッチや芝には、神様が宿っている。関係のない者が革靴などで容易に入ってはいけない」と教育されてきました。ですから我々スタッフはほとんどピッチ内に入ったことはありませんでした。
ところが、そのピッチ内にあろうことか車両が並んでいて、そして我々の車もそこに誘導されるわけです。その衝撃はとても大きく、ありえないことが起きているのだと改めて気づきました。そしてその時、「あぁ、Jヴィレッジはもう終わったんだ」と思いました。芝を全面的に管理していたスタッフも、これまで手塩にかけて丁寧に管理してきた芝が踏みつぶされているのを見て、涙を流して悲しんでいました。

当時は元に戻ることは想像できましたか?

どれぐらいで元に戻るとか、とてもそんなことは考えられませんでした。時間が経てば戻るとかそういうものではないと思っていましたし、原発事故の対応がいかに大変なのかは伝わってきましたので、何十年経っても戻らないのではないかとも思いました。

「神様が宿るピッチ」を埋め尽くした車両

従業員、全員解雇。周囲の反対を押し切ってJヴィレッジへ戻る決断をさせたものとは。

東日本大震災が発生して以降、原発事故の対応拠点となってからは営業停止となってしまいました。その後山内さんをはじめスタッフの方はどうなったのですか?

2011年3月25日に、会社にホテルスタッフが全員呼ばれまして、震災発生の日にさかのぼって全員解雇、と告げられました。そのうちの数名は部署の異動や東京の本社へ採用という形で救済されて、私もありがたいことに本社採用として声をかけていただいたのですが、単身赴任が条件でした。当時は子供も小さかったので、自分だけ福島を離れて生活するということはできないという思いになり、とてもありがたい話ではあったのですが、お断りしました。
その時、当時Jヴィレッジの副社長だった高田豊治さんが再開に向けて活動を始められ、私の状況を聞いたらしく、「Jヴィレッジの再開に向けて手伝ってくれないか」と直接お電話をいただいて、Jヴィレッジ再開に向けた活動をしようと決意をしました。

ところが、Jヴィレッジに戻ったのはよいものの、仕事があるわけではなく、当時Jヴィレッジ周辺の工事をしていたゼネコンに一時的に雇用していただきました。契約社員のはずだったのですが、会社から「ウチの正社員にならないか」と非常に魅力的なご提案をいただきました。家族や周囲は「Jヴィレッジは二度と元には戻らない、あんなところに戻ってどうするんだ。絶対にゼネコンにお世話になるべきだ」と言っていましたし、Jヴィレッジの高田副社長にすら「そんないい話があるのなら…」と言っていただいていました。

ただ、Jヴィレッジに残った他のスタッフがいわき市でサッカー教室などの活動をしていて、「いつ戻ってくるんだ」と声をかけてもらったりして、何より私自身、Jヴィレッジがどうなっていくのかを最後まで見届けたいと思っていました。再開が翌年なのか、5年後なのか、ずっと戻らないのかはわかりませんでしたが、いろいろ決めるのはその後でもいいのかなと思って、とても悩んだのですが、ゼネコンにはお断りを入れて、Jヴィレッジに戻ることにしました。

遅々として進まない状況、心無い批判。よぎる「諦め」の二文字。

Jヴィレッジに戻り、再開に向けてどのような活動をされていったのですか?

まず、Jヴィレッジの所有者である福島県電源供給公社や福島県庁にJヴィレッジを再開したいと話を持っていきました。ただ、当時Jヴィレッジを元に戻そうと本気で思っていたのは私たちだけで、何度も話を持って行ったのですが、なかなか前に進めることができずにいた状況でした。また、一部報道でJヴィレッジに批判的な記事が続いて、中には事実と異なる記事もたくさん出たこともあって、本当に辛い状況が続き、なかなか再開に向けた兆しが見えませんでした。

さらに、2013年の夏、Jヴィレッジを元に戻そうと奮闘されてきた高田副社長が定年で退任されることになり、これまでともに戦ってきた方が退任されることを考えると、もはやこれまでか…と私自身もいつ諦めようか、辞めようかと探り始めました。

放置したことで伸びきった草に覆われたピッチ

2013年9月7日、東京2020大会招致決定。高まった再開への機運。

そのような絶望的な状況の中で、どのように打開していったのでしょうか?

我々の心の支えになっていたものは、2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致活動でした。大会が決まれば、サッカー日本代表が再び合宿地としてJヴィレッジを利用することになるだろうし、それに向けてJヴィレッジが再開できるのではないかと期待していました。
実際、招致が決定してすぐ、関係者間でJヴィレッジ再開に向けた機運が高まっていきました。福島県が主体となってJヴィレッジ復興委員会やプロジェクトチームが立ち上がり、具体的な道筋が見えて、Jヴィレッジ再開を進めることができました。再開に向けて、1日に休みなく8時間も9時間も議論したのを覚えています。
東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の招致決定がなければ、Jヴィレッジの再開は無かったと思っています。本当に、それぐらい大きな出来事でした。

2013年9月7日、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会招致決定の瞬間。山内さんもテレビの前で思わずガッツポーツが出たという。

再開に向けて、具体的にどのような取り組みから始めていったのですか?

Jヴィレッジの再開に必要なのは、まず、私たちのエリアは安心であると知ってもらうことでした。とはいえ、私たちがいくら「ここは安心ですよ、来てください」と言っても誰にも信じてもらえないことは明らかでした。
ですから私たちは、まず私たちが原発や放射能のことを勉強して、正しい情報発信をしようと考えました。実際に基準値をクリアして安全な状況にあることを、ウェブサイトやSNSを通じて積極的に発信していきました。

原発事故対応時のJヴィレッジのピッチ(2011年3月)

見事に復活したJヴィレッジのピッチ(2018年7月)

震災が発生してから7年と少しでJヴィレッジが再開しました。振り返っていかがですか?

今振り返ってみれば、いろいろなことがあって、長く感じました。ただ、あれだけのことがあって、7年ちょっとで再始動できたというのは当時を振り返ればこの短期間でよくここまでこられたな、という思いが強いですね。長いような短いような…一言では言い表せません。
それに、まだまだ課題も多いです。新しくホテル棟が完成し客室を増やしたのですが、それに対応できるだけのスタッフの確保が必要です。震災前から働き手が少なかったのに追い打ちをかけるように震災がありましたから、県内外に出ていった人たちをいかに呼び戻していくか。それが最大の課題ですね。

「スタッフの確保など、課題は山積み」と山内さんは話す

今後Jヴィレッジに期待することは何ですか?

当初は、Jヴィレッジを再開させることが当面の目的だったのですが、今後は、Jヴィレッジの再開はあくまで手段で、地域全体の再生と振興が目的となりました。そのためには、地域全体で、地域外のお客様を呼び込まなくてはいけない。もっと言えば、この地域から離れざるを得なかった人たちを呼び戻したい。そのためにJヴィレッジは何ができるのか。我々スタッフ一人一人がそういった視点で考えていくことが必要だと考えています。

また、今後はサッカーだけではなく、いろいろな競技の方にもご利用いただこうと思っています。多くの方がJヴィレッジに来られることで、この地域の風評の払拭や経済的な効果にもつなげていけるのではないかと考えています。国際的な目線で見ても、オリンピック・パラリンピックを機会に海外のトップアスリートがここで合宿をして、「福島は、日本は安全なんだ!」とポジティブな発信をどんどんしていただければより広がりますし、それこそがスポーツが被災地に果たす力なのではないかと考えています。

Jヴィレッジの開業間もない頃から勤務され、震災により誰もが無理だと思っていたJヴィレッジの再開を成し遂げた山内さん。「本当にもうダメだ」と思った時期に東京2020大会の招致が決定されたことはとても大きかったと話してくれました。スポーツや東京2020大会が人に与える力を改めて感じさせてくれたインタビューとなりました。

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