齋藤由希子「家もなくなって、生きるのにやっと」 被災乗り越え、感謝を伝えるべく目指す東京2020大会

齋藤由希子
齋藤由希子

「パラリンピックの舞台から、世界中の人に感謝の気持ちを伝えたい」。宮城県気仙沼市で被災した齋藤由希子は、陸上女子やり投で東京2020大会を目指す。高校2年のときに震災に襲われ、半年の避難所生活。衣食住もままならない生活を助けたのは、県内外、国内外から送られた支援物資だった。避難所でともに暮らした人たちの応援、家族や地域、そして東北への思い。苦難を力に代えて、出場権獲得に挑戦する。

生きていることが不思議なくらい。10年たっても鮮明に残る記憶

10年がたっても、記憶は鮮明だ。授業を終え、校舎内の廊下で部活の準備のためにストレッチをしていた。突然、襲われた大きな揺れ。避難訓練のときのように、教室の机の下にもぐった。そこに、校舎外に避難せよという指示。気仙沼湾を見下ろす高台にある学校の校庭から見た光景は今も忘れられない。

「引き波があって、その後に津波が来た。避難している人の後ろに津波が迫り、家が破壊され、人が乗ったままの車が波にのまれていきました。男性教員は、ひざから落ちるように泣き崩れていました。人生でこれまでなかったことが起きている。生きているのが不思議なくらい、とんでもないことになったと思いました」

その後、学校には近くの人が津波から逃れて避難してきた。部活動で使っていたテントを校庭に立てた。齋藤は陸上部の部長として、使命感だけで作業を指示。何が何だか分からないうちに、時間だけが過ぎていった。

「どうしようかと思って携帯を手にしたときには、もう通じませんでした。ただ、茫然としていて、事の重大さは分かっていなかった。ピンときていなかった。あの日は金曜日で、翌日には学校のバスで他の高校との合同練習に行く予定だった。バスが流されて『明日は練習できないかなあ』なんて考えていたんです」

一夜を明かした翌朝、変わり果てた町の様子を見て、我に返った。祖母とはすぐに合流できたものの、自宅は流されていた。母と2人の弟の安否も分からず、不安な毎日を過ごした。陸上どころではない。生きていくことさえ大変だった。

「毎日、どこの誰々さんが津波に流されたという情報を聞きながらも、なかなか家族とは連絡が取れない。ようやく安否が分かったのは2週間後、避難所での生活は8月まで続きました。衣食住がひどかった。練習よりも、まず自分の生活。自宅が流されたので、着るものもない。何週間も同じ服を着ている状況でした」

支援物資のおかげで再開できた練習。でも、失ってしまった目標

生まれたときから左手の肘から先がなかった。それでも、活発でスポーツ好き。陸上を始めたのは中学から。ハンデを乗り越え、部活でも活躍していた。専門は砲丸投。実は利き腕と反対の腕の使い方が重要になるのが投てき種目だが、常に両手を使わなければならない球技などに比べれば、健常者と競い合うことができた。

「駐車場の陰でこっそり練習しようと、学校から避難所に砲丸と円盤を持ち込みました。ただ、公にできるような環境ではなかった。1カ月半ぐらいは何もできませんでした。5月になって、国内外から支援物資が届くと、その中にウェアとかシューズがあって。それを着用させていただいて、トレーニングができるようになった。遠征用のバックも、いただきました。支援物資がなかったら、何もできなかったですね」

競技人生の最大の目標としていたのは、インターハイ。最終学年を迎える直前に被災した齋藤は、出場の機会を奪われてしまった。齋藤にとっては大きな挫折だったが、それがパラ陸上に出会うきっかけにもなった。

「トレーニング不足もあったし、悔しさもあった。やってきた成果を発揮する場所がなくなって、不完全燃焼でした。自分の終わりを飾る場がなくなったことで、陸上を続けるために大学進学を決意しました。震災があったから、再会したときに涙を流してくれた母がいたから、遠くには行きたくなかった。それで、仙台大に進みました」

大学1年のとき、仲間に誘われてパラ陸上の大会に初めて出場。いきなり砲丸投、円盤投、やり投の3種目を日本新記録で優勝した。もっとも、これでパラ陸上に専念とはならなかった。ロンドン2012大会の選考が終わっていたこともあって、パラリンピックを意識することもなかった。

「試合結果がどうこうより、何もかもが新鮮でした。義足の選手がタータンに足を並べていて、こんな世界もあるんだと思いました。ただ、大学で陸上を続けたのは、あくまでインターハイに出られなかった悔しさを晴らすため。一番の目標は自分の専門種目である砲丸投で大学選手権を目指すことでしたから」

初めて出場したパラ陸上の大会では、3種目で日本新記録を樹立。しかし当時は、パラリンピックを意識することはなかったという
初めて出場したパラ陸上の大会では、3種目で日本新記録を樹立。しかし当時は、パラリンピックを意識することはなかったという
撮影 日本パラ陸上競技連盟

世界記録を持つのとは違う種目で、夫と二人三脚で目指す東京2020大会

実は砲丸投では自身のクラス(F46)で世界記録を持っている。しかし、少ない競技人数を理由にパラリンピックでは実施されない。リオデジャネイロ2016大会はやり投で目指したものの、大学時代は砲丸投を優先していたこともあって出場はかなわなかった。社会人として競技を続ける中で、パラリンピック出場は責務。東京2020大会へは、4月までの大会で記録を伸ばし、世界ランクを上げることが出場への条件となる。2017年夏には大学の先輩で砲丸投選手だった夫と結婚。今は福島を拠点に二人三脚で東京2020大会出場を目指している。

「1年の大会延期はあったけれど、記録は伸びていないんです。主人はやり投の勉強をしてサポートしてくれるし、多くの人に支えられている。パラリンピックの舞台に立つことが恩返し。ちょっとプレッシャーですけど(笑)。まだ4月まで大会があるんです。可能性があることを信じて、チャレンジします」

齋藤には笑顔がよく似合う。震災による苦難、世界記録を持つ種目がパラリンピックで行われない不運、そんな辛さを笑顔の下に隠し、愛する家族、故郷、競技のために、挑戦を続けている。

「笑顔しか売りがないんで(笑)。昔から人に褒められるのは、負けず嫌いなところと明るさでした。大変な思いをしたからこそ自分自身が明るくないと、周りも沈んでしまう。そう思っています」

将来的にはパラ陸上の発展に貢献したいという気持ちもある。健常者でも決して多くない女子の投てき選手。障がいがあってもできることを子どもたちに伝え、少しでも競技人口が増えることを願う。そのためにも、まずは自分がパラリンピックに出場すること。発信することの大切さも痛感している。

「中学(気仙沼中)の10個上の先輩に、佐藤(谷)真海さんがいるんです。陸上でパラリンピックに出られて、トライアスロンで東京2020大会を目指しながらパラ競技の発信を続けている。自分もそういう存在になりたい。少しでも近づけるように、頑張っていきたいと思っています」

生きるのがやっとのとき、支えてくれた世界中の人々へ感謝を伝えたい

日本で行われる東京2020大会への強い思いは変わらない。被災者の代表として出場し、世界に向けて感謝を伝えたいという気持ちが強い。

「家もなくなって、生きるのにやっと。競技ができるかどうかの瀬戸際でした。そんなときに世界中からたくさんの物資をいただいて、もう一度競技ができるようになった。パラリンピックの舞台に地元の代表として立って『助けていただいて、ありがとうございました。10年たって、ここまで来ました』と世界に向けて発信したい。被災者だからこそ、それが私にとっての復興大会なんです」

長かったようで、あっという間だった10年。気仙沼の高校陸上部員だった齋藤は、苦難を乗り越えて世界を目指すパラアスリートに成長した。その姿を世界に見せるために、東京2020パラリンピック出場に挑む。

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