「日本パラリンピックの父」を継ぐ中村太郎さん、障がい者スポーツに健康と安全を

長男・太郎さんを抱く医学博士の中村裕さん(右端)、左端に写るのはルードウィッヒ・グットマン博士
長男・太郎さんを抱く医学博士の中村裕さん(右端)、左端に写るのはルードウィッヒ・グットマン博士

毎年6月の第3日曜日は、父親に対して感謝を表す「父の日」です。東京2020大会を目指すアスリートたちも、その成長の裏に親の存在は欠かせないものでしょう。ただ、そうした実際の親とは違った意味で、「父」と言われる人が日本のパラリンピック界にはいます。東京1964パラリンピックの開催実現に尽力し、1964年から1980年までの5回のパラリンピックで日本選手団団長を務めた医学博士の中村裕さんです。1984年7月に57歳で生涯を閉じるまで、障がい者スポーツの普及に力を注いだ「日本パラリンピックの父」が、自身の家族に見せていた顔とは。また父と同じ道を進む息子の思いとは。長男である中村太郎さんへのインタビューを通じて迫りました。

先駆者として取り組んだ父

中村裕さんは大分県出身の整形外科医。国立別府病院で整形外科科長を務めていた1960年2月から約7カ月間、リハビリテーションの研究を目的にアメリカやヨーロッパに派遣されました。同年5月、イギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターに留学し、「パラリンピックの父」と言われるルードウィッヒ・グットマン博士の元で学びます。

グットマン博士は第二次世界大戦で脊髄を負傷した兵士に対する治療法として、スポーツを取り入れたリハビリテーションを実施。1948年には、のちにパラリンピックへと発展するストーク・マンデビル大会を開催しています。多くの脊髄損傷者がこの治療、訓練を受けることで短期間のうちに社会復帰していく姿を見て、衝撃を受けた裕さんはこうした手法を日本でも実践する決意を固めました。その後、さまざまな困難を乗り越え、東京1964パラリンピックの開催を実現。そこで、仕事をしながら競技に挑む多くの海外選手の姿を見たことがきっかけとなり、1965年に障がいのある方が自立して働く場「太陽の家」を創設します。その事業などに奔走しながら、現在のアジアパラ競技大会の前身であるフェスピックの第1回大会や、車いすマラソンの国際大会を大分で実現させるなど、障がい者スポーツの発展にも力を注ぎ続けました。

先駆者として障がいのある方の社会復帰に取り組む父は、長男の太郎さんの目にどう映っていたのでしょうか。「いわゆる昔の父親で非常に厳しくて。今のように子どもといろいろ相談しながら進めることはなく、全部自分でこうしろ、ああしろと決めていく人でした」。

太郎さんが中学生になると、「医学部に入れるように勉強しろ」と言われるようになります。そこには、長男である太郎さんに、自らが開業した病院を継いでもらいたいという父の思いがありました。太郎さん自身は幼いころからの読書好きで、完全な文系でしたが、「怖い父親だったので、有無を言わさずというか、やむなく医学部に進んだところはあります」と、苦笑いを浮かべます。

障がいのある方が身近にいる日常

病院を経営、太陽の家も運営し、さらに障がい者スポーツの支援でとにかく多忙な父でしたが、楽しみがあったそうです。それは車やカメラが大好きで、ラジオなど最新式のエレクトロニクス機器を手に入れることと、海外旅行。アフリカや南米、ガラパゴス諸島なども旅をしました。「父は忙しかっただろうけど、楽しかったんだと思います」と、太郎さんは振り返ります。

「(父は)機械が好きで工学部か、医学部か進学先を迷ったそうなのですが、整形外科という分野が医学部の中では工学部に近い部分があり、合っていたんだと思います。障がい者スポーツや社会復帰に取り組んではいましたが、(病院や太陽の家を経営しているように)実業家のような部分もありました」

 1960年生まれの太郎さんにとって、物心ついたときには、すでに太陽の家が創設されており、障がいのある方が身近にいることは日常だったそうです。

「太陽の家ができてから、(父は)障がいのある方を自分の家に呼んできて、一緒にご飯を食べていました。1975年に第1回フェスピックが大分で行われたときには、アジアの途上国から参加した障がいのある方が数週間にわたってうちに泊まり、病院の看護師さんが着物を着て日本舞踊を踊るようなこともありました。普段から障がいのある方が出入りしている家庭でしたね」

太郎さんが大学3年生だった1984年、裕さんは他界しました。そしてその後、太郎さんは病院や太陽の家、障がい者スポーツといった父が始めたものを継ぐことになります。しかし、太郎さんには父の後を継ごうという強い意志は全くなかったそうです。「医者の家に生まれたから、そのまま後を継ぐ」。当時はこれが当たり前の流れでした。

中村太郎さんはパラリンピック2大会で日本代表選手団のチームドクターを務めた
中村太郎さんはパラリンピック2大会で日本代表選手団のチームドクターを務めた

忘れられないシドニー2000大会

「父の後を継ぐ強い意志はなかった」という太郎さんですが、結果としてその父と同じ道を歩むことになります。父が創設した大分県内の病院の院長をしながら、パラリンピック日本代表選手団のチームドクターとして、シドニー2000、アテネ2004の両大会に帯同。現在も障がい者スポーツにも関わり続けています。

「父は私が20代前半の時に他界してしまったし、昔の父親と子どもはコミュニケーションを取って話すものではなかったので、父からの教えというのは覚えていません。でも父が始めた全てのものを継いでいるので、そういう意味では父の影響は大きかったんでしょうね」

何かを明確に教えられた記憶は、太郎さんの中にはありません。それでも裕さんの遺志は、しっかりと太郎さんに受け継がれています。そうでなければ、父が始めたものを35年以上も守り続けるのは難しいことでしょう。

「医者として(父と)全く話をしたことがなく、もし父がそのまま生きていたら私はこういう仕事をしていたか分からないですね」。太郎さんはそう話しますが、自身の中にも忘れられない記憶があります。それは初めてパラリンピックに帯同したシドニー2000大会で目にした光景です。

「整形外科医として、ずっと障がい者スポーツはリハビリテーションだと思っていました。シドニーで選手たちが精神的に自立し、練習や試合に懸命に取り組む姿から、ここにもエリートスポーツの世界があるのだなと感じました。そういうものに触れて、今までの自分の考えが変わっていきました」

パラリンピックは父の時代の「リハビリテーション」としての大会から、ハイレベルな争いが展開されるエリート選手の「スポーツ」大会へと変化していました。

医師として業務にあたる中村太郎さん
医師として業務にあたる中村太郎さん

「私は医師として関わりたい」

裕さん同様に障がい者スポーツに関わり続ける太郎さんですが、そのスタイルは父と異なります。

「父のときは障がい者スポーツの草創期だったので、医師が監督・コーチであり、選手の選考からトレーニングまでやる時代でした。今は医師がコーチをする時代ではないですし、かつてはドーピングコントロールやクラス分けも医師の仕事だったんですが、こちらも専門家がいます。私は医師として関わりたい。いかに健康に、安全にプレーを続けられるかということ。そこに注力していきたいです」

今やエリートスポーツ大会になったパラリンピックで、医師に求められるものは、父の時代の「社会復帰への支援」から「医療」へと変わりました。スポーツ選手として接し、出場する大会の前には飲んでいる薬のチェックや、心電図をとるなどしてサポートします。

そのような変容も相まって、これまで以上にパラリンピックへの注目度が高まりつつあります。太郎さんは、東京2020大会について「様々な価値観を認め合える社会づくりのきっかけになれば」と期待しています。

「障がいのある方でも、スポーツに興味のない人もいれば、運動が苦手な人もいます。みんながパラリンピックの金メダルを目指さなくてもいいと思います。いろんなスポーツの楽しみ方がありますし、スポーツじゃない楽しみ方もある。そのような社会をつくるには努力が必要で、時間がかかりますが、目指していくことが必要です」

父が「日本パラリンピックの父」だったからこそ、より深くまで触れることのできたパラリンピックの世界。太郎さんは、2度目となる東京でのパラリンピックが、多様性の認められる社会づくりに向けての出発点となることを願っています。

(写真提供:大分中村病院)

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