障がい者スポーツの普及に人生を賭した男 パラリンピックが地域を変える(第2回)

logo_small

アジア初開催となった東京1964パラリンピックは、東京だけではなく、大分を舞台に日本における障がい者の立ち位置や、障がい者スポーツの姿を大きく変えていくきっかけとなります。背景にはある人物の情熱と執念がありました。シリーズ第2回は、「日本パラリンピックの父」と言われる人物に迫ります。

東京1964パラリンピックで選手宣誓をする青野繁夫氏と、後方で付き添う中村裕博士(画像提供「太陽の家」)
東京1964パラリンピックで選手宣誓をする青野繁夫氏と、後方で付き添う中村裕博士(画像提供「太陽の家」)

パラリンピックの日本開催に尽力

1枚の写真がある。1964年11月、東京1964パラリンピックの開会式で撮影されたこの写真には、車いすで選手宣誓を行う青野繁夫氏の姿と、その背後に直立不動の姿勢で寄り添う眼鏡をしたスーツ姿の男性が映っている。

男性の名前は、中村裕。大分出身の整形外科医として東京1964パラリンピックの選手団団長を務めただけでなく、大会を日本で実現させるにあたり最も重要な役割を果たした人物の1人だ。

中村の歴史は、日本のパラリンピックスポーツ発展の歴史と言っても過言ではない。中村は60年、パラリンピック発祥の地である英国を訪れ、「パラリンピックの父」と言われるルードウィッヒ・グッドマン博士から脊髄損傷者に対する治療法として、スポーツを取り入れたリハビリテーションの導入と、それに続く社会復帰を支援する取り組みを学んだ。当時リハビリという概念も一般的ではない日本の治療法とは正反対のやり方に衝撃を受けた中村は、自ら学んだことを実践すべく帰国すると、すぐに日本で初めてとなる本格的な障がい者のスポーツ大会「第1回大分県身体障害者体育大会」を開催する。

しかし「治療は安静が中心」だった当時の日本では、「患者にスポーツをさせる」という中村の考えは受け入れられず、大きな批判を受けることとなった。

「サーカスの真似をさせるのか」非難にもめげず

グッドマン博士と中村(画像提供「太陽の家」)
グッドマン博士と中村(画像提供「太陽の家」)

「(中村は)ものすごく非難されました。「障がい者を人前に出してかわいそうだ」、「サーカスの真似をさせるのか」、「せっかく良くなりかけたのにスポーツをやって悪くなったらどうするんだ」といった否定的な意見ばかりだったそうです」

そう語るのは中村の長男で、自らも医師として父の活動を引き継ぐ中村太郎氏だ。

大会の不評にもめげず、中村は次の目標として「東京でのパラリンピック開催」を自らの使命と考え、関係政府機関などを説いて回ったものの、反応は芳しくなかった。日本でのパラリンピック開催は時期尚早だと何度も諭されたが、中村はくじけることなく起死回生の行動に出る。

62年、私財を投じて自身が勤める大分の病院から障がい者アスリート2名を英国に派遣し、車いすアスリートの国際スポーツ大会(ストーク・マンデビル大会)に参加させたのである。はるか遠くの日本から東洋初の参加者が来た、というニュースは、現地メディアの注目を浴び、狙い通り世界で大々的に報道されることとなった。さらにそれまで興味を示してこなかった日本のメディアも海外で話題となった途端に大きく報じ、障がい者スポーツが国内でも認識されるきっかけとなったのだ。

こうした中村の尽力もあり、翌63年にパラリンピックの東京開催が正式に承認された。その後、政府からの支援も取り付け、苦労した資金面の問題も草の根の支援でクリアしたことで、かつて中村1人の夢だったパラリンピックは、オリンピックに続いて行われる国民的行事として現実化したのであった。

想像以上に大きかった日本と外国人選手の差

パラリンピック閉会式(画像提供「太陽の家」)
パラリンピック閉会式(画像提供「太陽の家」)

障がい者保護から経済的な自立へ

中村の動きは早かった。パラリンピック終了からわずか1年足らずの65年10月には故郷大分の別府市に、障がい者が働き、生活することを支援するための施設「太陽の家」を開設した。障がい者を保護することが目的だったそれまでの施設とは違い、仕事やスポーツへの参加機会を作ることで障がい者が経済的に自立し、地域社会に溶け込む基盤としての施設だった。開所当初は、設備が十分に整ってはおらず、小さな作業所で7名の障がい者が木工や洋装などを行う小規模な仕事からのスタートだったが、ほどなく大手企業からの仕事を請け負うことに成功し、72年には日本で初めてとなる福祉工場が作られるなど順調に規模を拡大していった。

しかし、パラリンピックの開催はゴールではなく、むしろ長く険しい道のりの始まりに過ぎなかったことを、中村はすぐに思い知らされることになる。日本人選手のほとんどは中村の患者であり、自身も日本選手団団長として晴れ舞台を飾ったにもかかわらず、大会中の中村の表情は曇ったままであった。振るわなかった日本人選手のメダル数に納得がいかなかったからではない。外国人と日本人参加者の間に競技能力以上の「容易には埋めがたい差」があることを痛感したからだ。

「外国選手のほとんどは仕事を持っており、神父、弁護士、会計士、秘書、事務官、電気技師、溶接工、組立士、セールスマン、記者、支配人、機械工、時計屋、本屋、タイピストといった職業を持っていて、健常人と同じような生活をしている」

「一方、日本の選手は(出場した)53名のうちわずか5人が自営業で、他はみな、自宅か療養所で面倒をみてもらっている者ばかりだった。この差はあまりにも大きい」(いずれも『太陽の家創設者 中村裕伝』より)

パラリンピックで中村たちが見た外国人選手は、日本人とはあらゆる面で違っていた。

「当時、何かあってはいけないと、外国人選手につき護衛として警察官2名が常に配置されることが閣議で決まっていました。日本では脊髄損傷をしたら一生を施設か病院で暮らすというのが普通でしたから、そのような対応が必要だと判断されたわけですが、実際に大会に来た外国の選手は自立していて、競技の合間には銀座に繰り出して飲んだり、スーツに着替えて商談をする、といった様子だったそうです。彼らを見て日本の選手たちは「ああ、障害があってもこんなに自立できるんだ」ということを学んだわけです」(中村太郎医師)

解団式で選手たちから「私たちも欧米選手のようになりたい」と嘆願された中村は彼らにこう宣言したという。

「社会の関心を集めるためのムードづくりは終わりました。これからは慈善にすがるのでなく、身障者が自立できるよう施設を作る必要があります。戦いはこれからです」(『太陽の家創設者 中村裕伝』より)

開所当時の「太陽の家」(画像提供「太陽の家」)
開所当時の「太陽の家」(画像提供「太陽の家」)

中村は、障がい者の自立のためにも業務の質の向上は欠かせない、と仕事には厳しい態度で臨んだが、それ以上に多くの重度障がい者を雇用するなど、あらゆる障がい者を受け入れることを経済性、効率性よりも重視した。そのために、手作業などの単純作業から、熟練作業、頭脳労働など仕事内容を多様化し、用具なども自前で開発するなど、障がい者の作業環境を改善していったのである。

障がい者スポーツへの飽くなき情熱

第1回フェスピックの開会式(画像提供「太陽の家」)
第1回フェスピックの開会式(画像提供「太陽の家」)
第1回フェスピックの表彰式(画像提供「太陽の家」)
第1回フェスピックの表彰式(画像提供「太陽の家」)

こうした動きと並行して、東京1964パラリンピック後も、中村は障がい者スポーツに絶えることなく情熱を注ぎ続けた。「国内はもとより、世界の身体障害者、特に発展途上国の人々が一般市民とともに生き、「身体障害者」という言葉がこの世からなくなること」を生涯の目的としていた中村の行動は、大分に軸足を置きながらも、常に国境を越えたグローバルなものだった。

75年には、アジア・太平洋諸国から日本を含む18か国973人が参加した第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピックとも呼ばれる)が大分で開催された。パラスポーツの盛んな欧米に対して、パラリンピック以前の日本と同様に障がい者スポーツの普及が遅れていた発展途上国も参加できる大会を作りたい、という中村がオーストラリア、シンガポール、香港などの同志と連携し、各国の関係者や国内の企業などを説得して実現したものである。

車いすマラソンの発展は続く

1981年に開催された第1回大分国際車いすマラソン(画像提供「太陽の家」)
1981年に開催された第1回大分国際車いすマラソン(画像提供「太陽の家」)
2012年に行われた第32回大会。沿道から声援が飛ぶ(画像提供「太陽の家」)
2012年に行われた第32回大会。沿道から声援が飛ぶ(画像提供「太陽の家」)

そして続く81年にはこちらも大分において、世界で初めての車いすマラソン大会が行われたことはシリーズ第1回で述べた通りである。この大会を提唱したのも、中村だった。世界に先駆けた試みが大分で実現したのは、中村自身の存在もさることながら、東京1964パラリンピック以降の大分に、中村の関わる医療リハビリ施設や自立施設、そして就労の場が次々とできたことで多くの地元障がい者アスリートが育っていたことも、大きな後押しとなった。実際に太陽の家からは20名が参加し、全員が完走している。

中村はこの大会で、医学的研究も同時に行い「車いすマラソン競技は脊髄損傷者にとって医学的に優れたリハビリテーション効果がある」ことを確認し、翌年、国際医学会で報告している。

大分国際車いすマラソンが初開催されてから3年後の84年、中村は57歳の生涯を閉じた。中村の死後も彼が作った施設、スポーツ大会は発展を続け、21世紀となった今も世界規模で中村のレガシーは進化している。そしてその発展は、大分において、今や障がい者の地域との共生というテーマを超え、地域全体の活性化より大きな局面を迎えている。(敬称略)

(第3回に続く)