陸上競技
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競歩・鈴木雄介 「耐えて勝った」世界新記録への道
写真提供:富士通株式会社
日本陸上界における世界新記録の歴史は、1931年に走幅跳の南部忠平氏、三段跳の織田幹雄氏が初めて樹立したことに始まる。それから約90年経った現在、オリンピック種目の日本勢として唯一、その世界記録を持っているのが競歩の鈴木雄介だ。2015年、男子20km競歩で1時間16分36秒という世界記録を達成し、今もそれは破られていない。「世界新記録を出すとは」どんなことなのか。鈴木に、記録達成への道のりや、男子50km競歩で出場が内定している東京2020大会への思いを聞いた。
1秒早くすれば世界記録も狙える
「やっと自分の実力が世界でメダルを目指せるまでになってきた」
2015年3月、鈴木は好調だった。前年5月のワールドカップ競歩で4位に入ると、9月のアジア競技大会で中国の強豪選手と競り合って銀メダル。社会人になり、国際大会で苦しい結果が続いていたが、世界のトップとの差が縮まっていくのを感じていた。
そんな中、2015年3月15日に迎えた出身地である石川県能美市で行われた第39回全日本競歩能美大会は、歴史に残るレースとなった。「アジア記録だったら、ほぼ確実に出るんじゃないか」。アジア記録は1時間17分36秒、そして世界記録は1時間17分16秒、差は20秒だった。1km換算で1秒早くすれば世界記録も狙える。そう思ってスタートラインに立った。
レースが始まると体はスムーズに動き、世界記録ペースで歩いた。「10kmあたりでもう世界記録から貯金が20秒くらいあったのかな。このペースを維持すれば、出るなと思いました」。あまりの好調さに10kmまでは、周りのコーチ陣から「大丈夫か」と声をかけられるくらいだった。しかし残り5kmを切ると「そのままいけ、世界記録は普通に出るよ」と背中を押してくれた。
フィニッシュタイムは1時間16分36秒。それまでの記録を40秒塗り替えた。地元出身選手の快挙に会場は喜びに包まれた。この結果について、鈴木は「常に世界一をあきらめなかったのが、一番の要因かなと思います」と力強く語る。
世界一という夢へ、恩師「上を目指せ」
鈴木は中学生のころから、「世界一」という夢を抱いていた。陸上競技を始めたのは、小学校中学年のころで、2つ上の兄と一緒に陸上教室に通い始めたのがきっかけだ。教室は長距離が中心で、中学校でも長距離を続けようと陸上部に入部する。そのとき競歩と出会った。
「顧問の先生から1年生全員『強制参加』で、大会に参加させられたというのが、初めての競歩になります。入部して1、2カ月くらい。県大会の前の地区大会で競歩があり、(専門)種目も決まっていない1年生は、とりあえず全員、出とけと。それが出会いになりますね」
鈴木はこの大会で上位に入り、中学2年生からは本格的に競技を始める。県大会レベルに上がってもトップ争いを演じ、より楽しさを感じるようになった。加えて当時、競歩の練習をしていた陸上競技場では高校生と一緒に汗を流した。身長170cmを越える彼らと競い、勝つこともあったという。「年上の選手に勝てることが嬉しく、のめり込んでいきましたね」と、はにかんだ。
「恩師」と慕う競歩指導者の内田隆幸さんとの出会いもこのころだ。中学・高校と師事し、その教えは今も忘れない。「内田さんは『耐えて勝つ』という言葉が一番好きで、気持ちを強く持って上を目指せと常々、指導してくださいました。競歩ならインターハイ(全国高校総体)などで優勝できるようになる。世界で戦えるようになる。そういった意味でも『上を目指していけ』と強くおっしゃっていましたね」。
鈴木にとって地元での世界新記録達成は、常に世界一をあきらめずつかんだものだった
写真提供:富士通株式会社
トップとの差を「教えられた」2歳上の先輩
恩師の言葉通り、高校3年生の2005年には全国高校総体を優勝。このころから日本代表として国際大会にも出場するようになる。特に2004年、2006年と2度出場した世界ジュニア陸上競技選手権での経験が、鈴木に刺激を与えた。
鈴木の2歳上には同じ競歩で北京2008大会、ロンドン2012大会とオリンピックに2大会連続した森岡紘一朗がいる。鈴木はその森岡とともに2004年に世界ジュニア選手権の男子10000m競歩に挑んだ。そのとき鈴木は43分43秒26で17位、森岡は41分14秒61の6位入賞だった。2年後にも同大会に挑んだ鈴木は、43分45秒62で銅メダルを獲得する。しかし大会時の暑さなどを差し引いても、同じ大学生ながら、2年前の森岡のタイムには及ばなかった。
「森岡さんはすごく強く、ずっと前を行っていました。その森岡さんにも負けている自分には、(世界の頂は)もっともっと遠いんだなと。だからこそ自分は絶対に強くなって、いつか世界を獲るんだという気持ちで実力を上げることを考えました。どこが足りないとかではなくて、世界と比べると体力も、フィジカルも、スピードも足りないものばかりでした」
この思いを胸に、鍛錬する日々が続いた。社会人となり出場したロンドン2012大会では36位に終わり、世界の壁の厚さを感じた。それでもあきらめず、総合的な強化に取り組み続けた成果が表れ始めたのは2014年ころから。そしてその結実が2015年の世界新記録樹立であった。
50kmで世界の頂点、見据える東京2020大会
2015年8月の世界選手権を最後に、股関節痛で3年近くにわたり大会から遠ざかる。「治れば世界一に近づける」と信じる反面、「本当に治るのかな」「辞めたいな」と心が揺らぐ時期もあった。しかし、所属先の監督・コーチ、そして家族から「あきらめずやり続けていこう」と励まされ、鈴木は2018年5月に実戦復帰を果たし、同年9月の全日本実業団対抗陸上選手権では10000m競歩で頂点に立つ。
そのことで、鈴木には希望が見えてきた。さらに2019年4月には、日本選手権競歩で50kmに初挑戦し優勝を飾る。ここでドーハでの世界選手権の出場権を得たことにより、東京2020大会でも50kmにチャンスがあると考えた。
鈴木は同年9月、久々の国際舞台となった世界選手権で再び脚光を浴びる。酷暑のため深夜スタートとなった異例のレースで優勝。気温31度という暑さの中、スタートから飛び出し、そのままトップでゴールした。東京2020大会の50km競歩代表にも内定。経験したことのない環境だからこそ、自分の感覚に任せた結果だった。鈴木はこのレースを「人生の中で一番印象に残るもの」という。
「特殊なレースだったなと。競歩で夜中のレースは、なかなか体験できないですね。ドーハは高層ビル群が多く、形も特徴的です。それらの景色を見ながら歩いていたんですが、幻想的な雰囲気でした」
一方で酷暑での勝利は、鈴木の体にとって負担の大きいものだった。インフルエンザを発症し、体調を崩した時期もあった。しかし現在は体調の回復に努めながら、来年にむけた体づくりに取り組んでいる。「東京2020大会で金メダルを取るために、ああしたい、こうしたいという気持ちはありますけど、しっかりと調整し、本番に向けて準備をしていきたいと思っています」。
そんな鈴木は大会に向けてこんな思いを持つ。「オリンピックスタジアムに足を踏み入れたいですね。私たちは札幌開催なので、レースでは入らないですし、閉会式だけトラックに入るのも陸上選手として、寂しいなというのが正直なところです。苦しかった時期に支えてくださったみなさまへ、感謝の意を表するためにも、ぜひ(オリンピックスタジアムで行われる)表彰式に出られるよう、練習を重ねていきたいと思います」。
様々な試練を乗り越えてきた鈴木は、オリンピックスタジアムへの道も、「耐えて勝つ」つもりだ。