東洋の魔女「金メダルが取れなかったら日本にいられない」重圧を越え、栄光を手に

東京1964大会で、オリンピックの女子団体競技で日本初の金メダルに輝いた女子バレーボール「東洋の魔女」
東京1964大会で、オリンピックの女子団体競技で日本初の金メダルに輝いた女子バレーボール「東洋の魔女」

1964年10月、日本で初めてのオリンピックが東京で開催された。その東京1964大会で正式競技に採用されたバレーボールで金メダルを勝ち取ったのが、「東洋の魔女」と呼ばれる女子日本代表だ。彼女たちが成し遂げた歴史的瞬間を振り返る。

女子バレーボール「東洋の魔女」が金メダルを獲得
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「バレーボールは金メダルから始まった伝統と歴史のある競技。(金メダルを獲得した)東京なので頑張りたい」

現在の女子日本代表を率いる中田久美監督は、東京2020オリンピックに向けてそう決意を語った。思いの先にあるのは、日本中が感動の渦に包まれたあの日の栄光だ。56年前の10月23日、女子バレーボールは初出場の東京1964オリンピックで金メダルを獲得した。

出場するつもりのなかったオリンピック

「東京でオリンピックが開催されると決まったとき、実は、私たちは『へえ、東京でオリンピックがあるんだね。バレーボールもやるんだね』という感じで、他人事でした。というのも、1962年の世界選手権でソ連を倒して世界一になったら、大松(博文)先生も私たちも全員引退するつもりだったからです」

1962年の世界選手権と東京1964オリンピックでエースアタッカーとして活躍した「東洋の魔女」の一人、井戸川(旧姓谷田)絹子さんは、当時を思い出しながらこう語る。

女子日本代表は、初出場した1960年の第3回世界選手権でソ連(現ロシア)に敗れ準優勝に終わったが、国際試合で初めて敗れた悔しさから、「打倒ソ連」「世界一」を目標に掲げ、東京1964オリンピックの2年前に行われた第4回世界選手権でアウェイながらホームのソ連を破り、ついに世界一の座についた。最大の目標を達成したことで、大松監督と選手たちは引退を表明。新たな人生を歩むつもりでいた。

結婚を考えて悩んだ末に「やる」と

しかし、バレーボールが東京1964大会で初めてオリンピックの正式競技に採用されることが発表されると、「東洋の魔女」のオリンピック出場を望む国民の声が高まった。

「大勢の方から『東京オリンピックに出てほしい』と言われるようになりました。大松先生のところには、バレーボール協会の人が何度も説得にいらしていたようです。私たちのもとにもお手紙がたくさん届きました。『出場してほしい』というお手紙が圧倒的に多かったのは確かです」

5000通もの手紙が寄せられたと言われている。

「私たちはとても悩みました。結婚適齢期を迎えていたこともあったので……。私の記憶では、先生は『お前たちに任せる』とおっしゃった。最終的にはキャプテンの中村(旧姓河西)昌枝さんが、『私はやります』と言われて、それでみんな続けることになりました」と井戸川さんは続ける。

オリンピックにプレッシャーはつきものだ。当然のように、世界女王の「東洋の魔女」には、オリンピック初出場の東京1964大会で金メダル獲得という、かつてないほどの重圧がのしかかった。誰もが、「絶対に金メダルを取らなければ。もしも金メダルが取れなかったら、もう日本にはいられないかもしれない」と思い詰めていたという。

「鬼の大松」、生まれた「回転レシーブ」

大松監督は、日本代表メンバーの大半が所属していた国内リーグの強豪、日紡貝塚(後にニチボー貝塚、ユニチカとなる)の監督でもあった。ニチボ−貝塚は1959年から6年間無敗で、175連勝という偉業を遂げたことでも知られる。

その厳しい練習から「鬼の大松」と呼ばれた大松監督は、強豪ソ連を倒すには身体能力の向上と闘志が必要で、それには過酷を極める練習が必要だと考えていた。そうした厳しい練習を経て生まれた「回転レシーブ」は日本代表の秘密兵器となった。

回転レシーブは柔道の受身のように床に倒れこみながらレシーブし、転がりながら次のプレーへの体勢を整える。すぐ攻撃できるように回転して両足で立つのだ。選手は何度も床に肩をぶつけながら、繰り返し新技を練習した。

世界選手権優勝という目標のために「東洋の魔女」のメンバーは、午前8時から仕事をし、その後午後4時半から深夜0時まで練習漬けという日々を何年も続けた。しかしオリンピックでの金メダルとなると、また別だ。コートで過ごす時間はさらに長くなり、練習は午後3時からになり午前2時、3時にまで及んだ。朝の5時まで続くこともあったという。

10月23日の優勝決定戦、満員の観客の前でソ連との熱戦を繰り広げる東洋の魔女
10月23日の優勝決定戦、満員の観客の前でソ連との熱戦を繰り広げる東洋の魔女
© 1964 / Kishimoto/IOC

金メダルの瞬間

優勝決定戦は閉会式の前日の10月23日だった。会場の駒沢バレーボールコート(駒沢オリンピック公園総合運動場)は満員の4000人の観客で埋め尽くされた。貴賓席には皇太子妃美智子さま(現上皇后陛下)の姿もあった。

勝利への重圧は試合前にさらに高まった。柔道・無差別級の決勝で優勝候補だった神永昭夫がアントン・ヘーシンクに敗れたからだ。「真の王者」とも言われる無差別級で敗れたことで、人々は「日本の柔道が世界に負けた」と落胆した。国家の誇りを取り戻せるかは女子バレーボールチームにかかっていた。

日本はそれまでの4試合を難なく勝っていた。失ったのは1セットだけだった。それは想定内。大松監督は、「10月23日だけが、本当のオリンピックだ」と言い続けていた。最初から金メダルしか見ていなかったのだ。

優勝決定戦が始まった。日本は2セットを連取、第3セットもリードし、マッチポイントを握った。勝利を確信したが、そこからソ連の粘りにあい、14-13まで迫られた。

「もう、コートの上にいた選手は、全員が『自分が金メダルポイントを取ってやる!』と意気込んでいました。サーブを打つ人はサービスエースを取ろうと必死でしたし、スパイカーはみんな『私にトスを上げて!』と思っていたんです。試合は、ソ連のファウルで終わりました。一瞬何が起きたのかわからなくて、やっと理解したとき、『勝ったんだ、やった!』と思いました」と、井戸川さんは金メダルの瞬間を振り返った。

競技場では歓声が上がり、選手たちは歓喜の涙を流した。日本がオリンピックの女子の団体競技で初の金メダルに輝いたのだ。

オリンピック期間中の東京では、仕事を終えると早めに帰宅し始め、街から人が消えたと言われている。NHKによると優勝決定戦のテレビ視聴率は80%を超えた(NHK総合の平均視聴率は66.8%)。「東洋の魔女」の金メダルは日本国民の心に深く刻まれ、その勝利を機にバレーボールは人気スポーツとなった。1977年から3大大会の一つ、ワールドカップが日本で恒久開催されるようになると、一大ムーブメントにもなった。毎年のように大きな国際大会が日本で行われるようになり、人気を後押しした。

日本中を感動の渦に巻き込んだ「東洋の魔女」の金メダル獲得は、今もなお人々の心に深く刻まれている
日本中を感動の渦に巻き込んだ「東洋の魔女」の金メダル獲得は、今もなお人々の心に深く刻まれている
© 1964 / Kishimoto/IOC

東京2020大会で「東洋の魔女」の再現を

東京1964大会後、女子日本代表はモントリオール1976大会でも金メダルを獲得し、銀メダル2つ(メキシコ1968、ミュンヘン1972)、銅メダル2つ(ロサンゼルス1984、ロンドン2012)を獲得している。2020年10月現在、日本は世界ランキング7位だが、東京2020大会で栄光の座に返り咲き、再び国民の心をとらえたいと願っている。「粘り強さと組織力が日本の強み。チームで束になってメダル獲得を目指します」と、主将の荒木絵里香は言う。

そんな後輩たちへ、「東洋の魔女」のエースは、心強いエールを送る。

「今のバレーボールは、リベロができたり、ラリーポイント制になったり、私たちのころとはだいぶ変わってしまいましたが、テレビでバレーボールをやっていると見ています。やっぱり日本人ですから、みんなで拾って打ってというバレーをしてほしい。金メダルが取れるよう応援しています」

「勝ちにこだわり続けて、伝説に残るチームを作り上げたい」。中田監督は覚悟の表情でそう語った。再びの東京で金メダル、という大きな目標をかなえるため、現在の「火の鳥NIPPON」もまた、回転レシーブのような日本独自の戦術を生み出そうと試行錯誤や追求を重ねている。あの日の「東洋の魔女」のように、大舞台で羽ばたけることを願いながら。