画期的な試みで生まれた東京1964大会のレガシー 進化を続けるパラリンピック(後編)

国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式
国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式

今からさかのぼること55年前。1964年(昭和39年)11月8日から12日の5日間にかけて、日本における初めてのパラリンピック大会が東京で開催されました。大会は様々な困難を乗り越え、無事に閉幕しましたが、その翌日には正式な国際大会には認定されていない日本独自の障がい者スポーツ大会が行われました。国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部と称されて行われていたその大会は、非公式な国内障がい者スポーツ大会でありながら、現在のパラリンピックの原型ともいえる当時としては画期的なものでした。

もうひとつの「開幕式」

国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式
国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式
提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式
国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部開幕式

パラリンピック大会が「ホタルの光」で、感動的なフィナーレを迎えた翌日、わずか5日前に開幕式が行われた織田フィールドでは、その時の興奮を再現するかのように、もうひとつの「開幕式」が行われた。

「あいにくの曇り空であったが、元気いっぱいの選手団は、陸上自衛隊音楽隊の「上を向いて歩こう」にあわせ、北海道チームを先頭に、青森、秋田とつづき、沖縄の選手も盛んな拍手を浴びて行進、主催地東京チームのあと、西ドイツの選手団が入場行進した」(「東京パラリンピック大会報告書」より)

「国際身体障害者スポーツ大会(愛称:「パラリンピック」)第ニ部」と称され、非公式な大会として行われたのは各国代表ではなく、47都道府県から派遣された代表選手480名が出場した国内限定の競技大会であった。(正確には、一部の西ドイツ選手もオブザーバー参加)
参加者は、第一部には参加資格のなかった下半身以外の障がい(上半身や、視覚、聴覚など)のある選手たちを対象としていた。
実は当時の運営委員会が、「パラリンピック」という一般的ではなく、日本で初めて打ち出された愛称にこだわったのも、当時の正式名称である「ストーク・マンデビル大会」が一部の障がい者の参加に限定したものであることから、障がい者全体の国除的スポーツ競技会を「多くの人々に認識させる適切な表現」として大きく打ち出す方針を取ったためであった。

「パラリンピックは、非常に語呂がよいといわれた。そのせいか、近来、これほど人々にアピールしたことばはあるまい。パラリンピックというのは、下半身マヒのパラプレジアのパラと、オリンピックのリンピックをつなぎ合わせたもので、車イスを使う下半身マヒ者のスポーツ大会という意味になり、今回の、大会の第一部だけにあてはまることばである。しかし、身体障害者はそれだけではない。ほかにも、手足や目や耳の不自由な人々も、たくさんいる。そして、せっかく身障者の国際スポーツ大会を日本でやるのであるから、これらの人たちにも、ぜひ、参加して貰いたいということで、第二部を設け、ひろく全身体障害者の大会にしたわけである」(国際身体障害者スポーツ大会運営委員会会長 葛西嘉資:「東京パラリンピック大会報告書」より)

現在のパラリンピックの原型ともいえる総合大会

提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
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当時の障がい者スポーツをけん引していた欧米においては、障がいの種別ごとに大会が行われるのが一般的であり、パラリンピックに限らず、全ての身体障がい者が一つのスポーツ大会に参加できるようになったのはずっと後になってのことだ。当時の状況を考えると、1960年のローマ大会に、選手を派遣することができなかった日本が、現在のパラリンピックの原型ともいえる総合大会のフォーマットで障がい者スポーツ大会を開催したことは画期的なことだった。

提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
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提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
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この大会フォーマットは、翌1965年に開始された全国障害者スポーツ大会に引き継がれ、さらには1975年の脊髄損傷以外の障がい者にも門戸を開いた第1回FESPIC大会(アジアや太平洋地域の障がい者スポーツ大会、現在のアジアパラ競技大会)が世界に先駆けて日本の大分で開催されている。この大会をきっかけに日本が世界の障がい者スポーツにおいて重要な役割を担うようになったことは、パラリンピックの大きなレガシーといっていいだろう。

おおいなる成功の裏に

提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
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提供:公益財団法人日本障がい者スポーツ協会
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とはいえ、1964年の大会で見えたことは、こうした日本のすばらしい成果だけではなかった。むしろ参加した日本の障がい者選手にしてみれば、見えてきたのは欧米との容易には埋めがたい差だったのである。選手宣誓を行い水泳、フェンシングに出場した青野繁夫選手は大会が「生涯忘れられない思い出に」なり、「感激の涙を流した」としながらも次のように指摘している。

「外国の選手のあの明るさは何処から来ているのか疑問に思ったのは私1人ではあるまい。勿論国民性もあろう。が、しかし国家の福祉制度の充実から、生活の安定があっての事である事には、間違いあるまい。日本の現状は所謂先進国との差が有りすぎる様な気がしてならない。私達が身体だけ社会生活に堪え得る元気さを回復したとしても、現状はどんな受入れ方をしてくれるであろうか。なる程法律では、身障者雇用促進法が立派に成立している。であるが、これは全く軽度の身障者のものである。いやそれすら法の完全運用には程遠い状態ではないだろうか」(「東京パラリンピック大会報告書」より)

水泳、卓球に出場した長谷川雅己選手も後にこう記している。
「(大会に参加して)私は外国選手が明るく陽気でいられる背景を若干知ったのである。実際、暗い陰さんな影はないのである。それはそれなりの理由があるのだ。身障者に対する社会一般の理解がそこにあるからなのである。彼等は暗くなる理由がないのである。彼等は一個の人格として社会から認められているし、従って一人の人間であるという自覚をもっているのである。この辺が日本と違う処だと思う。(中略)日本に於て身障者が、いつになったらあのような気持で社会生活を送れる日が来る事やら。一日もその日が早く来る事を祈るかぎりである」(「東京パラリンピック大会報告書」より)

1964年東京パラリンピックに参加した日本選手たちの言葉は、あれから55年を経た2回目のパラリンピックを迎える現在の日本においても無縁の指摘とは言えないだろう。

パラリンピックは進化する

Tokyo 2020 / Ryo ICHIKAWA

非公式の記録ながら8m50cmを跳んだマルクス・レーム選手

東京2020パラリンピックの開催をちょうど1年後に控えた2019年8月25日。1964年大会でパラアスリートたちの舞台となった織田フィールドでは、多くの観客が固唾をのんで、走り幅跳びの助走路に立つ金髪の男を見つめていた。

観客たちの手拍子が少しずつ大きく、ペースを速めていったその時、彼が砂場に向けて走り出していった。全速力のまま勢いよく踏み切り板を蹴り上げると、その体は、両手両足が前方へと投げ出されたまま、砂場の一番遠い端すれすれの地点に勢いよく飛び込んでいった。
「8m50cm!」
会場に記録が読み上げられると、集まった観客からはどよめきが起こった。

この日は、大会1年前を記念して、走り幅跳びでパラリンピック大会3連覇を目指すマルクス・レーム選手がドイツから招待され、自身の持つ世界記録に挑む「ジャンプチャレンジ」イベントが行われていた。レーム選手は非公式ながら、自身の持つ世界記録を2cm更新する8m50cmという見事な大ジャンプを決めてみせたのだ。これはオリンピックにおいても金メダルを十分に狙える記録であり、パラリンピックに出場するアスリートが、オリンピックアスリートに匹敵するもしくは、凌駕する記録を出しうる時代が来たことを高らかに宣言しているかのようであった。
記録面で言えば、レーム選手は圧倒的な能力を持つ特別な選手だが、パラリンピック及びパラアスリート全体が、障がい者に合わせたトレーニング方法や、競技用の義足などの器具の発展、生活環境の改善などを経て、競技レベルを飛躍的に向上させていることは疑いようのない事実である。

「私たちパラリンピックのアスリートがオリンピックアスリートと対等のレベルにあるアスリートになりうると世界に証明するために、私はこうして走り幅跳びに全力を傾けているのです。もし、皆さんが、アスリートによる手に汗握る競争や素晴らしいパフォーマンスを見たいのならば、パラリンピックを見るべきです。間違いなくそれは素晴らしい体験になるでしょう」(マルクス・レーム選手:1年前イベントの後に)

1964年に行われたパラリンピック第2部では、上肢、体幹障がいのアスリートによる走り幅跳びは行われたものの、下肢障がい者による走り幅跳びは、存在しなかった。あれから55年で、パラリンピックは目まぐるしい変化を遂げており、それは現在進行形で続いている。