「分からないことが楽しい」追い求める競技の神髄 女子レスリング・伊調馨選手インタビュー(後編)

レスリングの神髄を追い求める伊調馨選手。彼女が描く理想とは!?
レスリングの神髄を追い求める伊調馨選手。彼女が描く理想とは!?

女子レスリングの伊調馨選手は、北京2008オリンピックで2連覇を達成したあと、「引退することも頭をよぎった」と言います。その気持ちが変わったのは、男子レスリングとの出会いでした。「オリンピックで金メダルを取ったのが恥ずかしくなるくらい」自身の競技観が根底から覆され、レスリングに対する新たなモチベーションが湧いたそうです。オリンピック4連覇を果たしながら、「今も分からないことばかり」とレスリングの神髄を追い求める伊調選手。そんな求道者たる彼女が描く理想を伺いました。

ターニングポイントとなった男子レスリングとの出会い

北京2008オリンピック後から男子選手とも練習をしていたそうですが、それによって競技面やメンタル面でどのような変化があったのでしょうか?

私にとっては、すごく大きなターニングポイントだったと思います。北京2008オリンピックが終わった後は、引退することも頭をよぎりました。姉(伊調千春さん)が引退して、自分1人でオリンピックを目指す意義を見いだせなかったんです。これ以上、オリンピックに出て金メダルを取ったとしても私にとっては何の価値もないと。そんなときに出会ったのが男子レスリングでした。男子レスリングに触れてみて、「自分はレスリングのことを何も知らないんだな」と思いました。オリンピックで金メダルを取ったことが恥ずかしくなるくらい、自分は何もレスリングの本質を分かっていなかった。「一からもう1回やりたい」と思いましたし、子供のころに戻ったように「楽しいな」と感じました。オリンピックや勝ち負けとは関係なく、純粋にレスリングを学びたいという気持ちでしたね。

それで技術面はもちろん、体力面でも男子に少しでも近づこうと思いました。男子は世界のレベルが高いので、メダルを取ることすら難しい。そのメダル1つのために必死なんです。そういう気持ちの強さも、今考えると自分は弱かったなと感じます。「どうしてもポイントを取りたい、どうしても勝ちたい」という男子のハングリーさも、見ていて勉強になりました。そこから自分も変わったと思います。レスリングに対する考え方や取り組み方、栄養面や体調面に関しても、自分と向き合えるようになりました。

男子と女子のレスリングで何が一番違うと感じましたか?

当時の私は、感覚でレスリングをしていました。なぜ右利きは右手を出すのか、なぜ左利きは左に回るのか、その理由は必ずあるものです。相手をマットに倒すには、倒すためにすべきポイントがある。私はそれを説明できなかったし、自分のレスリングも説明できなかった。「今、何でポイントを取れたの?」と聞かれても、「いや、分からないです。相手が倒れたので」という感じで(笑)。それを男子は理屈に沿って、説明できるレスリングを練習や試合でやっていました。私もこうなりたいなと思いましたね。説明できれば人に伝えることもできるし、自分がいつか指導する立場になったときにも言葉に出して言える。レスリングは本当に奥が深いんだなと感じたと同時に、自分のレスリングの浅さを恥ずかしく思いました。

ご自身のレスリングスタイルにこだわりはありますか?

男子レスリングと出会う前までは、手さばきに自信があったので、相手を疲れさせてミスを誘ったり、相手が疲れたところを自分が最後に攻めにいくというスタイルでした。でも男子レスリングと出会ってからは、攻める楽しさ、ポイントを取りにいく楽しさを学んだので、それ以降は攻撃レスリングというのを頭に入れて練習をしています。

レスリングが自分の人生を豊かにしてくれた

北京2008オリンピック後に男子レスリングと出会ったことが、競技人生のターニングポイントとなったそうです
北京2008オリンピック後に男子レスリングと出会ったことが、競技人生のターニングポイントとなったそうです

それまで築き上げたスタイルを変えるのは難しい部分もあったのではないですか?

試合で出せるようになるまでは時間がかかったと思います。それがだんだん練習でできるようになり、試合で少しずつ出せるようになって本物になり、自分の実力になってきました。そこからは楽しさしかないです。「どんどん技術を覚えたい、試合でその技をかけたい」という気持ちが強くなりました。

伊調選手は対戦相手に研究もされていると思います。そうした中でどのように戦略を立てているのでしょうか?

相手がいる競技なので、その人と対戦して最初は大差で勝っても、2回目は僅差になることもあります。自分も対策を練りますし、相手も当然そうしてくる。今度はどの作戦でいくか。あれがだめだったらこれ、これがだめだったら次は変えてみようと臨機応変に戦うのが難しさであり、レスリングの醍醐味でもあると思います。同じ状況というのはないですし、試合の中で作戦を変えていく必要もあります。負けたあとに修正して、次に勝てるようにするのはどのスポーツでも難しいところであり、一番やりがいを感じる部分だと思います。

これだけ勝ち続けられるのは、どの辺に要因があるとお考えですか?

今は勝ち続けていないので何とも言い難いです(苦笑)。ただ、勝ち続けたいとか負けるのは嫌だとか、あまりこだわりはないんです。これまでレスリングを追求してきたことは、選手生活が終わったとしても、自分の糧になっていきます。時間をかけて積み重ねてきたものなので、簡単には崩れないと思いますし、その糧を今後も増やしていきたいです。

他の選手と比べて、自分はこういう点が優れていると感じる部分はありますか?

「レスリングが好き」という気持ちだけだと思います。小さいころからずっとレスリングをやっているのですが、やめたいと思ったことがないんです。少し休みたいはあるんですけれどね。それくらい良い出会いや出来事があって、自分にとってレスリングというものが本当に人生を豊かにしてくれているなと感じます。

諦めなければ、ある日突然ひらめきが降りてくる

「分からないところが楽しい」。伊調選手はレスリングに魅了される理由をそう語ります
「分からないところが楽しい」。伊調選手はレスリングに魅了される理由をそう語ります

レスリングの何がそこまで伊調選手を魅了するのでしょうか?

やってみたら分かると思いますよ(笑)。

なるほど(笑)。

分からないところが楽しいです。やればやるほど難しくなり、練習ではうまくいくけれど、試合では思うようにいかなかったりする。この選手にはうまく技をかけられるのに、あの選手にはかけられないとか。「なんでだろう」と思いますよね。10人中10人に技がかかったらうれしいですが、10人に1人しかかからない。でもそれが2人、3人と増えていったら楽しい。「この技は自分に向いていないのかな」と思うときもありますが、そこで諦めてしまったら、その技は一生覚えられない。だから諦めたくない。諦めないで毎日コツコツ工夫して練習していると、ある日突然「こういうことか」というひらめきが降りてくるんです。それを自分で理解して、口で説明できるようになったら、その技は自分の技になったということ。そうしたら技もかかるようになってくる。それが面白いですね。だから諦めたら終わりだなと思います。

オリンピックで4連覇して、長くキャリアを積み重ねていても分からないことはたくさんあるのですね。

人それぞれ手足の長さや体の柔らかさも違うし、その選手に合ったレスリングスタイルというのが必ずあります。私はパワー系でもスピード系でもないので、どこでそれをカバーするか考えないといけない。パワーがある人はパワーのレスリングをできるし、スピードがある人はそれを生かしたスタイルで戦えばいい。自分にはそれがまねできないんですけれど、パワーレスリングやスピードレスリングをやってみたいと思ったり、テクニシャンのレスリングもやってみたいと思います。1つのスタイルを極めた後は、別のスタイルも極めたくなる。本当に無限なんです。

そんな伊調選手が考えるレスリングの神髄はどういうものだと思いますか?

自分でもまだ分からないです。それは私が一番追い求めている部分でもあります。どのスタイルがいいかも正解・不正解はないですし、勝ったらその人が強いというだけです。勝つというのは難しいとあらためて感じていますが、今はそこを1つの壁として乗り越えていければいいなと思っています。

「負けてよかった」と思わないともったいない

「敗戦は自分の弱いところを教えてくれる」と、伊調選手はどういう結果も前向きにとらえているようです
「敗戦は自分の弱いところを教えてくれる」と、伊調選手はどういう結果も前向きにとらえているようです

これまでのキャリアで、負けに対する恐れが出てきたことはなかったのでしょうか?

むしろ負けることの方が得るものは大きいので、「負けてよかった」と思わないともったいないと感じます。敗戦は自分のダメなところ、弱いところを教えてくれる。勝つとなかなかそちらに目がいかない。自分の弱いところに目をつむってしまう部分が少なからずあるんです。でも負けたことによって、そういうところが明確になる。そこを直さなければ勝てない。「だから負けたんだ」と学ぶことができる。負けに対する恐れを持つ必要はなく、例えば攻めに行かず負けたら、行かなかったことが敗因だと思うし、攻めに行って負けたら、また工夫して考えればいい。負けることは決して悪いことじゃないと思います。

伊調選手は大きな目標を立ててそれに向けて逆算してプランを考えていく方なのか、あるいは日々小さな目標を立ててそれをクリアして、最終的な大きな目標を達成していくタイプなのか、どちらに近いでしょうか?

後者だと思います。逆算していくのは難しいです。日々の練習で1週間、2週間、1カ月と時間をかけてやっていても、自分が目指すところまで到達しないこともあります。少し早めに技を理解したと思っても、それはまだ浅い理解で、深みが出てくるのはもっと先のことであったりする。毎日繰り返し練習して、少しずつでもいいので、時には下がったりしながら、上っていく方が私には合っていると思います。

伊調選手にとって、最終的に目指すゴールというのはどこなのですか?

説明できない技をなくしたいです。スタイルや技がたくさんあり、さまざまな選手がいます。どの選手がどんなスタイルで、何の技をかけてくるか分からない。例えば誰かに教えることになった場合、「その技、自分も現役のときに練習したけれど、うまくいかなかった。だから一緒に考えよう」というのもありだと思うのですが、指導者は選手よりも常に知識も経験も上を行っていなければダメだと思うんです。そういう意味で1つでも多くの技や技の展開を覚えたいです。

(この項、了)